先生

いつも思うのは「モノを作ることのできない人間は先生になってゆく」ということだ。勿論これは本来的に「先生」になってゆくのではなく「先生的」になってゆく傾向にあるということ。このニュアンスがわかる人はわかると思うのだけど、実際に数々の知識と役に立つ経験則、技術と判断力を与えてくれる先生とは程遠い「先生的な」現象というものがあって、そういった先生的なあまりにも先生的な人は教育の現場だけでなくどこにでもいる。彼等は先生であって、けっして何かしらをおしえているのはなく何よりも先生でありたいのである。元来先生と呼ばれる人間は御用聞きであったり藩士の用心棒であったり優れた使い捨てを「先生」と呼ぶ傾向にあった。しかし現代の「先生的なもの」は先生の座にしがみつく先生的なものそのものなのです。もしこのニュアンスがわからないのだったら、教育の現場にいる鬱陶しい先生を「先生的なもの」としてもよいかもしれない。そういった先生的なものは実際の先生よりもひどく先生的だったりするである。
先生的な人間はときとして教えられる人間に対して自分は何かしらの高い技術や知識をおしえている、つまり生徒は何も知らないので自分が教えていると思っている。彼等は自分(先生)よりも劣った人間に何かしらを教えていると思っている。実際の先生と生徒の関係はどう考えても公平であり、先生が生徒から学ぶことは山ほどあり、優秀な先生はそれらの統括とマネージメントという能力においてすぐれていることの方が多い。この世界の多岐に渡る専門的な知識や経験則は一人の人間が先生として教えられるほど浅はかなものではない。
ものを作る人間には2種類いる。組織を作る人間と物質(または物質に準じる実際に我々の感覚にうったえるモノ)を作る人間だ。これらを作り続ける人間は決して先生的にはならない。彼等はただ作り続け環境を触発させ、成長させ、活気づけ、生きていることについて何らかの幸福感と高揚感を与えるだけである。本来的に教育とは作り続けることだと私は思っている。