拗ねる

 僕の人生の中であまり多くは出会って来なかった人種に最近出会うようになりました。どういう運命的な出会いなのはわかりませんが、僕の中ではちょっと異質というか奇妙というかおもしろいものなので書いておきたいと思いました。
 その人種はいくつかの際だった特徴があるんです。
真っ昼間からどういうわけか性欲があるらしい。
性欲が過多にも関わらず性欲過多の異性をビッチまたはヤリチン扱いして軽蔑している。
腰痛持ち。
限りなく自分の美学があるらしく他人の美学は気に入らない。
白人に対して極端に恐怖心を感じるが、中国人や韓国人に対して態度がでかい。
朝に弱い。
よく漢字を間違う。
などなどですが、最大の特徴は「拗ねる」です。これがまたよく拗ねるのです。
 例えばですが、人間には様々な感情というものがあって悲しんだり怒ったり喜んだりいろいろするわけですが、どんなに奇妙な人間であろうと少なからず何らかの根拠があって(原因があって)喜んだり悲しんだりするものだろうし、最低限限定的な小さな社会であってもそれらの感情は共有されるものだと思います。僕はチャールズ・ブコウスキーの小説を読むと笑いが止まらなくなるんですが、こういう話はあんまり他人にできるものではない。というのもブコウスキーの小説を読んで深く感動し涙を流す人もいれば、何について書いているんだからさっぱりわからない人もいる。しかし、ブコウスキーの小説を読んでケタケタ笑っている姿を見て、「あ、それわかる。」という人物は僕に共感を示してくれる。そういうわけでブコウスキーの悲惨な詩を読めば読むほど笑いが止まらなくなるのが僕なのですが、それをわかってくれる友達と飲みながらそういう話題になると本当におかしくておかしくて楽しくなってしまうわけです。しかしながら、これはちょっと少数派の感情であってブコウスキーの小説は腹を抱えて笑う!というようなことは世間では言われていない。ですので、僕は公共の場で(例えばたまたまパーティーで居合わせた知らない人とブコウスキーについて話す機会があれば、)最初から笑い出すことはなかなかできない。それは共有されていない感情なのでいきなりおかしな感情を丸出しにすることは不謹慎だと思うわけです。しかしながら、ブコウスキーが笑いの原因であることは確かであって、彼が描き出す悲惨な世界観には少なからず笑いの要素が多くある。
 そんな風にして人間は喜怒哀楽の何かしらの感情をある種の原因、あるいはきっかけ(トリガー)でもって生成されるのであろうけれど、その生成は共有されない限り公共の場ではなかなかおおっぴらに公開できないわけです。仮に人が死んだら太鼓と音楽で踊り出す民族がいたとしても、彼らは村に帰るとそうかもしれないけど、日本の大学に留学中にはそういうことはしない。まず第一に一人で太鼓と音楽で踊り出すわけにはいかないし、第二に日本では死体を前にして踊り出すことは道徳的に許されないからです。
 しかし、共有されない場面というのもあります。部屋で一人で漫画を読んでいるような場面では、誰とも感情を共有する必要がないし、まして感情を露わにしたところで誰にも迷惑をかけないので思う存分喜怒哀楽に浸ることができる。笑ってもいいし、泣いてもいいし、怒ってもいい。しかし、家族や友人、シェアパートナーなど隣人がいることによって人間は少なくとも確固たる個人の特別な感情というものがある程度コントロールされると思います。それは慣れ親しんだ家族であってもそうです。そういった隣人、つまり社会の中ではある種のレベルによって感情が共有され、故にコントロールされることになるのだと思います。その最たるものが政治家のあの独特の話し方であって全国の日本人の有権者と感情を共有しなくてはならないので言葉は慎重に選択されるだろうし出来る限り我々の理解できる(あるいは、理解できなくて感情が乱れない)態度と言葉でもの申すわけです。
 しかしここ最近、共有されない感情を露わにする立派な大人によく出会います。いきなり拗ねるわけです。拗ねるというのは比較的ネガティブな感情のカテゴリーに属するのでややもするとおかしな感じがしないのではないかと思いますが、例えば、いきなり笑うというのはやっぱりちょっと異質でしょう?電車の中でいきなり隣の人が笑い出したらやっぱりキチガイが精神病の一種か、その後に何かしらの危害が加えられるかもしれないという危険な臭いがするはずです。いきなり拗ねるもある種のそういう狂気の雰囲気を醸し出すんです。
 先に述べたように少なくとも「いきなり拗ねる」には特化した何かしらの原因があるに違いありません。彼ら彼女らには拗ねる原因があったのです。しかしながら、気になるのはその直接の原因とその吹き出した感情に彼ら彼女らの中に因果関係がないのです。それはある意味で詩的な意味さえ帯びてきます。カミユの小説のように主人公が何故殺人をしたのかと裁判所で尋ねられるシーンがあって、主人公は「太陽がまぶしかったから。」と答えます。何故拗ねたのですか?と尋ねたら彼ら彼女らはきっと「太陽がまぶしかったから。」と答えるんじゃないかと思います。
 しかし現実の日常で拗ねられると困るわけで、詩的な世界を持ち出されても困るんです。何かしら共有できる部分が原因で拗ねてもらわないと周囲は大変困る。太陽がまぶしいことで拗ねられると非常に困る。しかし勿論彼ら彼女らは自分が拗ねていることにすら気が付いていないのかもしれないです。





プロフィール



  • Name :: 山上オサム ♂(37)
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