いつも思うちょっと不思議な動機

2011.12.21 23:35
 時折不思議な人物に出会うことになるのが人生だと思うのですが、稀に「xxxをやりたいのだけど教えてくれないだろうか?」的なことを言われる時があるのです。しかしそういうセリフを吐く人物というのはたいていの場合、椅子に座って待っているというのが常なのです。おそらく教えてくれるのを待っているのだと思います。

 私の個人的な経験ですが、実際問題として人から教わることは殆どないと考えています。何かを教えて貰うことが不可能なのが人間の知性でありその複雑奇ッ怪な情報処理能力だと思っているわけです。それ故に逆方向からすると教えるべきことは何1つないのです。
 例えばですが、母国語を習う人間はいません。我々は母国語を最初から話しますし、赤ちゃんの言葉は「マンマー」であっても「お腹がすいた」と解釈され「お母さん」と解釈されるわけですから、生まれた泣き声さえ母国語として周囲は理解します。(まさか、泣き声だけが外国語だなんて解釈しません。宇宙語だとも解釈しません。)我々が特別にもっているスキルは殆ど母国語に相当し、その教育過程であるとか学ぶという人口的且つ直線的な解釈では殆どその中身を理解するのが不可能だと思うのです。しかしながら先のように人から何かを学ぼうとしている人間は、教えられることを椅子に座って待っているわけです。
 何かスキルをもっている人物は、その時点でそのスキルをもっている人間が殆どです。勿論、会社の研修や大学、研究機関や実際の業務を通じて学ぶことは沢山ありますが、それらに向かう姿勢や好奇心は殆どそれらに動機づけされたものではないことが殆どです。紛いなりにもある種のプレゼンテーションとして(わかりやすく短く語るために)「xxxxがきっかけであり、xxxx様に学んだ」ということになりはしますが、実際問題の中身は多いに違います。スキルを持つ人間は殆どその意志とは無関係にそのスキルを望んでいるので幼い頃から動き出していると思うのです。私の息子には私は何1つ教育していませんが、5歳の時点ですでに好きなものは決定的なようです。おそらく私同様一生変わることがないと思います。彼は自分の目的に沿って情報を集め、スケジューリングし、資料を作成し、蓄積しています。何1つ教えていないのにです。彼が作人出すものはすでに立体的でありパースペクティブをもっています。しかし、このパースペクティブがどこからやってきたのかは、私自身もわかりませんし、彼自身も全くわかっていないでしょう。
 例えば外国語を学ぶ時、外国語を学ぶきっかけは殆どありません。必要に迫られて話さざる得ない場合か、あるいはもうすでに外国語を話せるという状況にあるのが常です。ここでの問題はいずれにしろ、外国語を学びたいが話すことは何もないという不思議な状況を自分人で理解できない人間がいるということです。外国語は生活に必要であったり、業務上(飯の種として)必要であったり、どうしても外国語でなければ学ぶことができないという状況にあって習得するものであって、世間の英会話講座の宣伝のように外国語を学ぶために学ぶということが前提にあったとしたら習得はおそらく100%不可能なのです。これはあらゆる意味でそうであって、工作を上手に作りたい子供にとって何を作るのかが重要であって(私の息子の場合は、自動車や電車であり、その乗り物には必ず仮面ライダーが乗っているのです。)工作が目的はないのです。工作はその手段でありスキルであり、あるビジョンを実現するための単純な表現手段に過ぎない。言語もそうであり、その表現手段なのです。話すこと、つまり表現する内容がない場合に表現手段を学んだところで何も成し遂げることはできません。これだけはっきりとしたことが、全く理解できない人物というのは本当にこの世の中にいるのが不思議です。 同様にしてお金を貯めたいと思う人物がいるとします。彼等もお金が何に運用されて何の目的に使われるのかが全く皆無の状態でもって貯蓄を望んだりします。これは実に不思議なことです。
 これは人間の高度に抽象化された感覚がなせる技であると私は考えています。例えば安心感というものです。貯蓄と安心感は一見して実にイメージしやすい関連した事象に思われるかもしれませんが、実際は酷く遠いものです。安心感というものがあまりにも多義的であるのに対し貯蓄は実に具体的且つ物理的な事象であるからです。安心感を得るためにはもっと別の方法が沢山ありますし、その沢山ある(実に無数)の中から何か1つを選び出したところでそれが実現するかどうかわからないといった代物のなのです。ここら辺りの高度に抽象化された事象と現実の具体的な事物を直接結びつけることは非常に難しいと思われます。
 私は誰からもプログラム言語を学びませんでした。しかし、前述したように自分のプロフィールを語る際にキーワードとなる師匠は存在しますが、何も教わりませんでした。彼等がおしえてくれたのは、書籍であり重要な分岐点においての的確な方向性です。平文のプログラム言語に対し「これからはオブジェクト使えないと役にたたない。」といった実に簡潔な文句です。そしてオブジェクトがどういうものなのかというのは非常に説明しづらいのです。それはサッカーのリフティングを言語化できないのと同じです。例を示しその構造(や感覚)を自分の中でひとつひとつ消化し理解を深めていかねばなりません。またその理解に疑念を感じ、またある意味ではその理解に対し確信し自信を持たねばなりません。それスキルであり言語化できない領域での個人が持つ特別なスキルとなります。
 プログラムを書こうと思ったきっかけすらわかりません。すでに幼少の頃からプログラムを書くという方向性があり、目の前にブラウン管のモニターとキーボードがあったのです。お陰で目を悪くしてとんでもない近眼になりメガネが手放せなくなりました。手元には紀伊国屋で購入したプログラムの入門書が少年ジャンプと一緒に積み上げれていたのです。それは少年ジャンプ同様に非常に楽しく愉快であり寝るのが勿体ないと思うほどの好奇心でもって実際の作業に臨んでいました。
 おしえてほしい、と言って椅子に座っている人は一体何なのだろうと私は思うのです。

 例えば英語をおしえてくださいという人は、どうしてだか英語の辞書を持ち歩いていません。私はプログラムの学習上、どうしても英語が必要なので辞書はいつも持ち歩いています。幸いにして最近ではiPhoneに辞書を突っ込むことができてかさばらなくてとてもよいですし、パソコンがあれば(むちゃくちゃな訳ではあっても)6割方理解できる範囲で翻訳することも可能です。しかし椅子に座って待っている方々は、辞書すら持ち歩いていないのです。これは非常に奇ッ怪なことだと思わざる得ないでしょう。しかし、この奇ッ怪さを本人に説明するのは実は至極困難なことなのです。彼等は椅子に座って待っていて、いつおしえてくれるのだろうと別の興味に関して頭を巡らせています。本来はその頭を巡らせている範疇がその本人の興味の方向性であり目的である筈です。しかし彼等は待ち時間の間、おしえて欲しい内容を自ら学習するということができない人間なのです。結果として個人的に特別なスキルをもつことが不可能になります。
 おしゃれが好きな人は、すでにおしゃれです。おしゃれが好きでこれからおしゃれをしようとする人間にセンスのよい洋服や髪型が備わる期待感はゼロに等しい。ミュージシャンになりたいという人間が今、楽器を所持していない、歌わない、叩かない、音楽を聞かないというのはものすごく不自然なことだと思います。事物を習得できる人間と、そうではない人間の格差は今やここまで開きがあるのかと...。。この格差は埋められないんじゃないかと。
 椅子に座って待っている人物のもう一つの特徴があります。それは、努力を秘密にすることです。密かに努力しようとするのです。こういった努力は100%失敗に終わるのではなく、すでに失敗しているといった方がよいと思います。努力は吹聴しなければ協力者は現れません。隣にいる人物、周囲にいる人物、出会った人物に吹聴するべきものです。自分がどういう方向性に向っているのかを周囲が知らない状況でスキルは身につきません。照れ屋さんや人間恐怖症の人物が概して低能に見えるのはそのためです。なぜならスキルは人間のためにあるので人間との関わりを抜きにスキルは身につかないからです。人間以外のために使われるスキルは今のところこの地球上にはないと思います。





プロフィール



  • Name :: 山上オサム ♂(39)
  • Hobby :: 武術
  • Work :: Web Designer