僕の普段の恰好と言えば、だいたいにしてパジャマに限りなく近いスエット、あばよくばジャージ。伸びない素材の服が嫌いなので通常の服は殆ど着ない。外に出かける時は一張羅でリーバイスの517とTシャツ。Tシャツはカミさんがフリーマーケットで100円ぐらいで買ったものや仕事先のお得意先からもらったTシャツが殆ど。自分で買った覚えのあるTシャツはない。リーバイスの517を買いにゆくのも面倒になり最近ではユニクロのブーツカット(女性もの)がちょうどいい感じでよい。冬のジャンバーは仕事先のユニフォームばかり着ている。靴は9割サンダル(無印)。時々靴を履かなくてはならない状況下においては飲み屋のマスターがヤフオクで落としてみたはいいがサイズが小さくて履くことができなかったバスケットシューズ。かつては臭い頭を隠すために帽子をかぶっていたが最近は毎日風呂に入るので帽子も必要なくなった。さすがに最近人にファッションセンスを疑われるばかりか「注意」されることが多い。最近気がついたのだけど、渋谷の宮益坂辺りのカフェなんかでジャージとサンダルとTシャツの人は殆どいない。みんなそれなりの自己主張というかそれなりの見せ方できちんと服を着ているのである。
塩野七生のエッセイ(文芸春秋 2010.01)の中でいわゆる洋服のお買い物には経済的なうんちゃらの他にも想像力を鍛える何某があるとのことだった。あるバック一つがどんな服に似合うか...どんな風に持ち歩くべきか...と想像を巡らずそうである。そしてその想像力は「鍛え」なければ衰えるとのことらしい。その比喩として筋肉が衰えないようにするためにジムでお金をかけて鍛えるのではないか!とのことだった。僕は筋肉も鍛えないがいわゆる買い物(ショッピング)で何某の想像力も鍛えていない。鍛えるどころか殆ど気にしたことすらなく、鏡を見るということが皆無な毎日を過ごしている。
ユニクロ栄えて国滅ぶ...的なことが最近叫ばれていてユニクロの安価で(そこそこ)センスのいい服を誰もが買うようになったとのことだが、実際に世間ではそんなにユニクロなのだろうか。僕自身、おそろしいことにユニクロの服についても考えたことがないのである。ファッションという分野から完全に隔離された生活を送っている。理系の父をもつ自分であるが理系の方々はファッションに対してそんな感じなのではなかろうかと想像しているがもしかしたら全然そんなことはないかもしれない。
祖父の葬式の際は、さすがに彼の戦争体験の人生と幼い頃からたくさんの話を聞かせてくれた思い出から逃れることができなくていささか感傷的になったが、背中をピシッと伸ばして彼の骨を拾うことになったその時にマーガレットハウエルのスーツの着心地が妙なシンクロをしてしまって「よいスーツを着ることは悪くない」と思うようになった。スーツとはそういう服なのである。夜一人で道を歩いている時にいきなりアスファルトの上ででんぐり返しをしたくなって本当にしてしまうような僕にはジャージがお似合いであるが、ある状況ではスーツが必要であることが確信できてしまった。
ファッションという意味では、その格好良さ高級感、ステイタスということには未だもって何の興味も沸かないが、ファッションとはある人間の状況下においてはその着心地、素材、重さ、色、形というものが人間の心理に直接作用するものだということに気がついて少しばかり驚いてしまったのである。いわゆる高級ブランドといわれるシャネル、エルメス、その他諸々は、そのような人間の根幹に関わるような部分で洋服を設計しているのではなかったか...と思うとファッションというものに非常に深いものを感じてしまうのですよ。祖父の葬式にユニクロの黒いスエットで出席はできない。
そして思ったことが、僕はひょっとして自分の心理的な状況がいつもジャージレベル、あるいはジャージ&スエットのようなゆるい空気の中にあるのではないかと思った次第です。



