話は飛びますが、人体という意味で考えてみると、口とケツの穴はたぶんインターフェイスになると思うわけです。しかし、ケツの穴と顔(フェイス)はなかなか違うものでして、想像がしづらいということなのですが、フェイスはあくまでも洒落た比喩であり、具体的な意味においても抽象的な意味においても外部とのやりとりの何らかの手段や方法をもっている部分をインターフェイスという言い方ができると思うのです。目や耳、鼻、口といった顔についている様々な器官はインターフェイスという抽象概念と結びつきやすいのですが、ケツの穴のような下品な部分に関してはちょっと想像しにくい。しかし抽象言語として考えるとケツの穴もけっして閉じた世界ではなく外界と何らかのやり取りをしている器官であるということなのです。
物事を様々な角度から考えるとこのインターフェイスはなかなかわかりずらい言葉なのですが、例えば関数のインターフェイスはどこにあるのか?というと、たぶん()括弧の中にあるとおもうわけです。print_r();のこの括弧の中に何らかの文字列をいれると変数だの配列だのをダンプしてくれるわけですし、この括弧の部分にいろいろなものを入れるわけなんです。そういう意味では口という器官も人間にとってそれはそれは重要なインターフェイスでして、食事からはじまり、知覚的な外部の物質の認識をして、体中の全組織がその判断によって生命を維持することもできれば、死に至ることもある。print_r();も、もし何らかの数値を突っ込んだらそのプログラムは行き来と動くかもしれないし、死んでしまうかもしれない。インターフェイスとは本来そういうものです。自動車のキャブレター(なんてもうないのかな...)だってインターフェイスですし、コンピューターのデスクトップやiPhoneのガラス面だけがインターフェイスではなく、マウスやキーボードだって立派なインターフェイスなわけです。
さて、このインターフェイスはこの現代に至っては、社会的な公共の場で広く公示されているインターフェイスと恋人のような密な関係でしか見せない限りなく複雑奇っ怪ではありますが、接続できた際の快感といいますか喜びといいますか...そういうインターフェイスが結構盛んに開発されてきました。これが先ほどのAPIというものです。
我々はFacebookなどでログイン画面から中に入って、いろいろと活動を行うわけです。ここは非常に公的で開かれた場所であるので、あまりにも個性的な挙動や迷惑になる行為は(やればできるんでしょうけど)なかなかそれが許されないモラルがあるわけです。しかし、恋人とベットの上で行われるようなピロートークですとか、その恋人との文脈でしか理解できない秘密の会話ですとかジョークですとか、そういうものがFacebookでも可能であったりします。(勿論インターフェイスの比喩です。)それがAPIというものです。
これは、プログラムがプログラムにアクセスする際の出入り口になる部分です。人間がプログラムにアクセスする出入口ではなく、プログラムがプログラムにアクセスする出入口です。これは正直奇妙な気持ちになる部分ではありますが、実際にそういうものがもう今現在では普通になっています。これも立派なインターフェイスでして、何らかのやり取りの後に何らかの動きが可能になります。
あなたのFacebookにアクセスした友人たちの履歴は、Facebookから見ることができますが、あなたのホームページにほぼ同時に自動的に表示することは人間の手ではできません。コピー&ペーストして貼り付けてファイルを作り、それをアップロードすることしか我々にはできません。しかしAPIを使うと殆ど同時にそれらを表示することができるわけです。これはネットワーク上内部にプログラムとプログラムの出会いの秘密の場所がありまして、そこでそこそこの密会をするわけです。そうすると、人間が介在しなくてもプログラムがプログラムを読み込んでいろいろと我々が楽しいとか便利とか思うことをやってくれます。これがAPIです。
CUIというものもあります。一番身近な例では、Windowsのコマンドプロンプトとか、Macのターミナルなどです。ここではいわゆる機械語というようなアルファベットで人間は機械とお話することができます。楽しい場所ではありますが、人間も機械と同じ機械語を話さないと会話になりません。これは人間にとって非常に不利な(まるで海外を歩いているような)気持ちにかつての私もさせられたものですが、実際のところ機械もずいぶんと譲歩してくれていて、人間に近い言葉(特に欧米人にとってはかなり人間に近い言葉)を喋ってくれていることに気が付きました。しかしきちんと喋るときちんと返事があり、きちんとした返事があるとこちらもまたいろいろと働きかけたくなるというシロモノです。
しかし、このインターフェイスがIT関係の言葉としてのみ成立するのはちょっと勿体ない。ここではちょっとした哲学としての用語でも充分楽しいものになるんじゃないかと私は思いました。
これはジャン・ポール・サルトルではありませんが「他者」と「自己」の交わる点、それがインターフェイスというものだと思えば限りなく哲学的になります。というのも、哲学の歴史の中で他者とはなかなか難しい問題であったり、今でも尚難しい問題なのです。例えばフロイトは無意識という人間の根本的な欲求と超自我といわれる社会的な行いの規範や神、道徳みたいなものの間に「自我」が挟まっているというようなモデルと考え出しました。この時、限りなく自己に近いものはこの「自我」であって、欲求、またその真逆に位置するモラルというものはまるで「他者」にみえてくるわけです。この自我がもっているインターフェイスは二つ、欲求に対してのインターフェイスと超自我に対してのインターフェイスです。ここらでは大変難しいやり取りが行われて自我を保っているというわけです。
またあるダンサーは、他者と自己の境界線(インターフェイス)は皮膚にあると語ったことがあります。これはまことに示唆に富んでいる。皮膚から中に侵入されると他者が中に入ってきた!と認識するわけです。皮膚を堺に自己の外と内をわけるのは案外普遍的な定義になるかもしれない。というのは、あたなが唐揚げを食べます。唐揚げをほいと口に入れる。それをテーブルの上にべーっと出す。このべーっと出された唐揚げは実にもうすでにあなたのもの(自己)になっている可能性がある。なぜなら、そのべーっと出した唐揚げは他の人々にとってはもう他者であり、他者であるが故に自分の口にいれたいとは思わないわけです。ですから、口は正にインターフェイス。
インターフェイスがインターフェイスである所以はこのことからもわかるように、他者性、つまり外部ストレージにあります。機械も人間も外部ストレージ(他者)とインターフェイスを通じて何らかのやり取りをすることで自己を成長させたり、落胆させたり、活動させたり、欝になったり、はたまたバグったり、ウィルスにやられたり、死んでしまったり、恋に落ちたり...するのです。これがインターフェイスです。
あなたが他者に働きかける入り口だったり、他者が何らかの形であなたに働きかけてくる出口はだいたいインターフェイスです。監獄の面会所はインターフェイスですし、手紙という媒体もインターフェイスです。そういう意味で理解してください!
この度も改行がなくて申し訳ありません。



